アキナさんが来日しました

JFCアナさんが来日しました。アナさん。忘れもしません。もう今から10年以上も前のこと。まだアナさんが小学1年生のころだったと思います。アナさんの上には、二人のお姉さん、下には一人の妹と弟がいました。アナさんと二人のお姉さんは日本人のお父さんの子どもで下の二人はフィリピン人のお父さんの子どもでした。一家8人は一つの屋根の下に2DKの狭いアパートで暮らしていて全員オーバーステイ。子どもたちは学校に行っていませんでした。長女は当時6年生。学校に行ってないと聞いて愕然としました。すぐに上の3人の子どもたちの学校の手続きをしましたが、学校の先生から、「子どもたちは礼儀正しくて自分のことを自分でできるいい子たちですね」と言われたのを記憶しています。

家族が多いので、長女と次女は弟と妹の世話をし、家事をして生活をしていました。母親は非常に怠惰で無責任な人だったことを記憶しています。そのため、子どもたちに家事の一切を任せ自分は何もしていなかった。そんな家庭でした。

この家族のために何ができるんだろう。

そう途方に暮れたものでした。冷蔵庫に何も入ってない。大家から家を追い出されそうだ。数日何も食べていない。そんな電話が年がら年中ありました。上の子どもたちは日本人の父親なので、お父さんから認知をもらって在留特別許可を求めたらどうか、ということは今であれば考え化かもしれません。でも、その当時は、認知が必ずしもあったとしても生活があまりに不安定で、日本人の子以外のフィリピン人の家族の多いこの家族に在留特別許可が出る可能性がある、ということもまたはっきりとしなかったのです。

ある日、家族はオーバーステイで入管につかまり、家族は全員、フィリピンへ強制送還となりました。当時長女は中学1年生になっていたでしょうか。その後、家族がどうなったのか知る術もありませんでした。風の便りに教会のシスターに子どもたちが引き取られた、と聞いていましたが、実際のところは分からずじまいでした。

2009年1月1日に国籍法が改正され、認知のある子どもは日本国籍を取得できるようになりました。マリガヤハウスにネグロスから1本の電話があったのです。それがアナさんたちからの相談でした。

「父を捜して認知をしてほしい。日本国籍が欲しい」ということでした。

私はアナさんたち姉妹からの連絡をもらったことをマリガヤハウスから報告を受けた時、あまりの感激に一人声を上げてしまったくらいです。
話を聞けば、フィリピンに強制送還後、アナさん家族は言葉では言い尽くせないくらい本当に苦労をしてきたようです。幸い、教会のシスターに姉妹は預けられ、上の二人の姉たちもしばらくはシスターのもとから学校に通っていたそうです。今では二人とのそれぞれ結婚し子どももいるとのことでした。

弁護士さんにお願いをして認知の申立てをしたのですが、結局調停では話し合いがつかず訴訟に持ち込むことになりました。しかし、アキナさんも20歳を超えてしまい、日本国籍はかなわぬ夢となってしまいました。

それでも、アナさんは日本に行って訴訟を続けたいという思いで先日シスターと来日しました。日本語の学校に入学し、日本語の勉強を続けながら訴訟を継続する予定です。

アナさんだけはずっとシスターのところでお世話になり日本語も忘れておらず英語もタガログ語もイロンゴ語もできるようでした。

お父さんに再会したい。そんな希望も語ってくれたアナさん。アナさんの夢がかないますように。(伊藤里枝子)