ユキちゃんの笑顔

JFCのユキちゃんは20歳になってから、自分の父親は日本人でまだ生きていることを知りました。それまでは母親から自分の日本人の父親はすでに亡くなっていると聞かされていたからです。自分の父が生きていることを知ったユキちゃん。父親にどうしても会いたくて会いたくて、その想いは日々募るばかり・・・。日本人の男性と結婚して日本に暮らしている母親に短期滞在(親族訪問)呼び寄せてもらっている間にJFCネットワークへ相談にきました。

日本人の父親から認知をされれば「日本人の配偶者等」の在留資格で日本で暮らしていける可能性もあることを説明すると、ぜひ日本で暮らしたい、とのこと。これまではずっと母親と離れて暮らして来たユキちゃんはこれからの人生は母や父の暮らす日本で生活をして行きたいと希望していました。

父親に連絡をとると非常に驚いてはいたものの、自分の子どもであることは認め、「いつか会いたい」などと話してくれました。しかし、いざ認知の話になるとなかなか話が進みませんでした。

ユキちゃんが事務所に来たとき「お父さんと話がしてみたい」というので電話をしてみると幸い電話口に出てくれたお父さん。ユキちゃんが来日していること、今、ここにいて話をしたがっている事を伝え、ユキちゃんに電話を代わりました。「お父さん、ハッピーバースデイ。会いたいよ」。つたない日本語でユキちゃんはお父さんに話しかけました。そう。翌日はたまたまお父さんの誕生日だったんです。お父さんは「僕の誕生日を覚えていてくれたなんて感激だな〜」と嬉しそうでした。

このときはこのままうまくことが運ぶものだと思っていましたが、しかし、いざ認知の話になるとやはりなかなか話が進みませんでした。

ユキちゃんの在留資格は短期滞在。働くこともできず、特にすることもなく毎日を過ごすことはかなりストレスでした。これ以上、待てないとしびれを切らし、弁護士さんにお願いをして認知調停の申立てをしてもらうことになりました。しかしお父さんの住所は長野。長野の弁護士さんはなかなか見つからず、いつも遠方のケースを嫌な顔を見せず、引き受けて下さる弁護士さんに今回も甘え、ユキちゃんのケースをお願いしました。

2回の調停を経て、お父さんは自分の子だとは認めているが「何を今更」という気持ちがあり、直接本人と話をしたいようだったので第3回目の期日の9月に長野の裁判所へユキちゃんと一緒に通訳として同行してきました。

はじめて顔を合わせる父と子。二人とも涙を流しての対面。私も思わずウルウル・・・。お父さんは調停ではなく任意で認知をすることを応じて下さいました。裁判の帰りにはご自分の家に招いてくれ、少しの間、話もできました。ご自分の子どもたちはすでに成人し独立したので大きな家に夫婦と高校生の娘だけで暮らしていて寂しいから、いつでも遊びにおいで、ここに住んでもいいよ、とまで言ってくれてユキちゃんもお父さんの優しさに感激して帰路につきました。

任意で認知をしてくれることになったのに、ユキちゃんの出生証明書に両親の婚姻日が記載されてしまっていて(フィリピンではよくあることだが)、このままだと日本の役所は認知届を受理してくれないので、誤記を説明した宣誓供述書の他、ユキちゃんのお母さんとお父さんのフィリピンのNSOに婚姻記録がないことを証明する書類も添付してようやく役所に認知届けを提出することができました。

今日は待っていた役所からの電話。認知届けを出した後に、役所からユキちゃん自身が窓口に来てパスポートの原本提示を求められていたのですが、長野という遠方までわざわざ行かなければならない時間的金銭的コストの問題を伝え、またJFCネットワークではこれまで母子がフィリピンにいるケースの場合、子どもの国籍証明のために要求されるパスポートはすべて写しを添付してきて問題がなかったことも説明し、なんとか写しで受理してくれるよう交渉しました。数日前、法務局に確認すると言われ役所からの連絡を待っていたのです。結果として、「これは私のパスポートに間違いありません」と書いて本人の署名をしてもらえば受理してくれることになりました。ユキちゃんに伝えると、さっそくパスポートの写しをもって事務所に来てくれました。これで在留資格も日本人の配偶者等へ変更申請が認められる日も近いでしょう。よかったね、ユキちゃん。20歳を超えてしまったので日本国籍は取得できませんが、心優しく頑張り屋のユキちゃんはこれから日本できっとたくましく生きていってくれると信じてます。